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「目の前に、一軒のホテルがあった」

辛うじて立てる岩場まできて

から、わたしは履いていた靴

を脱いで、谷底に向かって、

投げてみた。片方ずつ。両方

とも。

靴は闇のなかに吸い込まれて、

そこから返ってくる音はなか

った。靴を投げたあと、わたし

はゆっくりと自分の身を投げた。

・・・

 死に損なったわたしは、不完

全な死体として生き続けた。

五年かかって大学を卒業した

あと、大阪にある旅行代理店

に就職し、二十九のとき、お見

合いで結婚をして会社を辞めた。

娘が小学校に通い始めた年、

再就職した職場で優しい人と

知り合った。

わたしには夫と娘がいたし、

優しい人には奥さんと二人の

子どもがいた。

それでもわたしたちは、惹か

れ合う気持ちを抑えることが

できなかった。

「もっと早く出会えていたら」

とわたしたちはどちらも、言わな

かった。その代わりに、

「知り合えて、よかった」

「巡り会えて、よかった」

と言いあった。とても小さな

声で、囁くように。

まるで誰かに聞かれるのを恐れ

ているように、お互いにお互い

をかばい合うように、手と手を

しっかり握りあって。

わたしたちはホテルの一室に

チェックインした。

「こういうところに来たから

といって、何かしなきゃなら

ないってことはないんだよ。

服を着たまま、ふたりでこう

して横になっているだけでも、

僕は安らぐし、あなたがいや

なら今夜は何もしないで、し

ばらくしたら帰ろう」

と優しい人はいった。決して

開けらることのない窓のそば

に置かれた、よそよそしいベッ

トの上で。

わたしが恋に落ちたのは、、ま

さにその瞬間だった。もしも

そのとき、優しい人がわたしを

裸にして、貪るようにわたしの

躰を抱いていたなら、

それで憑き物は落ちてしまい、

わたしは優しい人に、恋を

しなかったかもしれない。

肉体関係を結ぶことなく、安

らぎだけを与え合ったその夜

を堺に、けれどもわたしたち

は、

決して安らぐことのない関係

に、のめり込んでいくことに

なった。